歴代王名一覧(フランス)
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王名 在位 王朝名
備考
1 クローヴィス1世
Clovis Ⅰ
481~511 メロヴィング家
Meroving
西暦4世紀の「ゲルマン民族の大移動」によってガリア地方に定住したその一部フランク族が建国したフランク王国の最初の王。 496年にローマ・カトリックに改宗したクローヴィスは、多宗派を異端として攻撃、領土を拡大した。
- 分割統治期間
-
511~558 - 前フランク王クローヴィス1世が死去後、フランク族の習わしに伴い、その息子テウデリク、クロドメール、キルデベルト、クロタール1世によってフランク王国は分割された。
2 クロタール1世
Clothar Ⅰ
558~561 四男 前国王の四男として生まれ、534年にブルグンドに侵攻、滅亡させ、さらに東ゴート王国からプロヴァンス地方の割譲を受け、西ゴート王国に侵攻した。 兄キルデベルトが死去すると、領地を併合、再び統一されたフランク王国の王位に就いた。
- 分割統治期間
-
561~613 - クロタール1世の死後、再びフランク王国はその三度目の妻チューリンゲン王女イングンドの息子たちカリベルト、グントラム、シギベルト、キルペリクによって分割統治され、さらにカリベルト死去後、 三分割(アウストラシア、ブルグンディア、ネウストリア)に分割統治された。
3 クロタール2世
Clothar Ⅱ
613~629 分割統治されていたネウストリア王国のキルペルク1世と王妃フレデグンドFredegundの五男として生まれ、父王の死去に伴いネウストリアの王となったが、まだ生後4カ月だったため、 母フレデグンドが摂政となった。613年に従兄弟たちの王国アウストラシア、ブルグンディアに侵攻し、再びフランク王国を統一、その王となった。
4 ダゴベルト1世
Dagobert Ⅰ
629~639 長男 父王クロタール2世の長男として生まれ、623年に父王よりアウストラシア王の王位を受ける。 629年に父王の死去により、ブルグンディア、ネウストリアの分王国の王位を継いで、再び統一フランク王国の王となった。
5 クローヴィス2世
Clovis Ⅱ
639~657/8 長男 父王ダゴベルト1世と王妃ナンティルドの長男として生まれ、ネウストリア、ブルグンディアの王位を継いだ。 しかし、まだ幼少だったため、その母のナンティルドと宮宰(きゅうさい)アエガとともに統治した。 これ以降、宮宰と呼ばれる臣下が王国の実権を握るようになる。
6 クロタール3世
Chlothar Ⅲ
658~673 長男 クローヴィス2世とアングロサクソン人奴隷であった王妃バルティルドの長男。657年に父王クローヴィス2世が死去し、母のバルティルドを摂政として王位に就いた。 アウストラシア王国でのピピン一族の影響を排除し、後にその王位を弟のキルデリク2世に与えた。
7 キルデリク2世
Childeric Ⅲ
673~675 先々王クローヴィス2世とバルティルドの次男。アウストラシア王シギベルト3世の娘ビリキルディスと結婚し、 662年、アウストラシアの宮宰カロリング家出身の次王キルデベルト養子王の死去後、兄王クロタール3世より、アウストラシア王位を分け与えられた。 673年に兄王クロタール3世の死後、宮宰のエプロインはテウデリク3世を王位に擁立しようとしたが失敗、キルデリク2世が統一フランク王国の王位に就いた。 しかし、わずか2年後の675年にネウストリアの貴族により暗殺された。
- 分割統治期間
-
675~679 - 統一フランク王国の国王としては不在の期間
8 テウデリク3世
Theuderic Ⅲ
679~691 先々々王クローヴィス2世とバルティルドの末子。兄王キルデリク2世の死後、ネウストリア王位を継いだ。 679年にアウストラシア王国国王ダゴベルト2世が暗殺され、宮宰エブロインは、アウストラシアの実力者ピピン家のピピン2世たちを倒し、 テウデリク3世が、再び統一されたフランク王国国王となった。
9 クローヴィス4世
Clovis Ⅳ
691~695 長男 先代王テウデリク3世と宮宰ピピン1世の孫クロティルダの長男。9歳で王位に就き、14歳で死去。 伯父にあたる宮宰ピピン2世に利用されていた。
10 キルデベリト3世
Childebert Ⅲ
695~711 先々代王テウデリク3世と王妃クロティルダの次男。 伯父にあたる宮宰ピピン2世に利用されていた。
11 ダゴベルト3世
Dagobert Ⅲ
711~715 息子 先代王キルデベリト3世と王妃エドンヌの息子。
12 キルぺリク2世
Chilperic Ⅱ
715~721 親戚 第7代王キルデリク2世と王妃王妃ビリキルディスの息子。 先代王ダゴベルト3世が死去した時に、ネウストリアの宮宰ラガンフリドはキルぺリク2世が預けられていた修道院から連れ出し、ネウストリア分王国の王とした。 その後、717年、テウデリク3世(第8代王テウデリク3世の息子)の宮宰カール・マルテルによって王位を追われたが、 カール・マルテルはネウストリアでのキルぺリク2世の影響を弱めることができなかいまま、、 アウストラシア分王国としての王位はクロタール4世(第8代王テウデリク3世の息子)が引き継いだ。 718年、カール・マルテルはネウストリア王国に侵攻し、再びフランク王国は統一され、その王位にキルぺリク2世を就けた。
13 テウデリク4世
Theuderic IV
721~737 親戚 第11代国王ダゴベルト3世の息子。721年、先代王キルぺリク2世の死去に伴い、 宮宰カール・マルテルによって王位に就くが、実権はマルテルが握っていた。
- 国王不在期間
-
737~743 - 第13代王テウデリク4世の死去をもって、統一フランク王国の国王としては不在の期間となった。
14 キルデリク3世
Childeric Ⅲ
743~751 親戚 第12代国王キルぺリク2世の息子。 743年、フランク王国宮宰カールマンとピピン3世の兄弟により、統一フランク王国国王となった。しかし、実権はのピピン3世に握られていた。
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15 ピピン3世
Pippin Ⅲ
751~768 カロリング家
Carolingien




フランク王国の宮宰だったカール・マルテルとその息子ピピン3世は他国に侵攻、その領土を増やした功をもって、 先代王キルデリク3世親子を修道院に幽閉し、ピピン3世が自らフランク王国王位を簒奪した。 754年にローマ教皇ステファヌス3世が彼をローマ貴族(パトリキPatricii)に叙し、さらに王としてのその影響力を増した。
16 共同統治期間
Karl Ⅰ
Karlmann
768~771 息子達 先代王ピピン3世の死後、フランク族の習わしとして、 その息子カール1世Karl Ⅰ(カール大帝)とカールマンKarlmannはフランク王国を分割統治したが、 兄弟間の不仲はカールマンの死後まで続いた。
17 カール
Karl Ⅰ
768~814 ピピン3世とベルトレドの長男。771年に弟カールマンの死後、単独で再び統一されたフランク王国の国王となった。主にカール大帝とよ呼ばれる。 800年にローマ教皇レオ3世Papa Leo Ⅲから王冠を戴き、西ローマ帝国の復活を宣言した。以降、ローマ文化、キリスト教、ゲルマン文化の融合によるカロリング・ルネサンスという文化運動が始まった。 トランプのハートのキングのモチーフになった。
18 ルードヴィヒ1世
Ludwig I
814~840 三男 父王カール大帝の三男でルイ敬虔王(敬虔帝)と呼ばれた。しかし、即位直後からフランク族の習わしに従い、 その王国を息子達ロタール1世、ルートヴィヒ2世、シャルル2世に分割する方針を掲げたため、カロリング王朝は弱体した。 このうち、シャルル2世が継いだ西フランク王国が現在のフランスの元となった。
- 分割統治期間
-
840~843 - 先王ルードヴィヒ1世死後、西ローマ帝国領はその息子たちに分割して継承されたが、兄弟は対立し、 ヴェルダン条約を結んで、ロタール1世Lothar Iはフランク王国中部と西ローマ皇帝位、ルートヴィヒ2世Ludwig Ⅱは東フランク王国、そしてシャルル2世は西フランク王国を統治することとなった。
19 シャルル2世
Charles Ⅱ
843~877 息子 ルートヴィヒ1と2番目の王妃ユーディトの長男(?)。父王ルードヴィヒ1世から西フランク王国を継承し、その王位に就いた。禿頭王として呼ばれた。 長兄で中部フランク王国国王ロタール1世の息子ロタール2世Lothar Ⅱの死後、その領土を継いだが、 次兄で東フランク王国国王ルードヴィヒ2世がその権利を主張したため、メルセン条約を結び、現在のフランス(西フランク)、イタリア(中部フランク)、ドイツ(東フランク)の元を作った。 イタリアには甥の息子であるルートヴィヒ2世(ルイ2世)をその王とした。
20 ルイ2世
Louice Ⅱ
877~879 長男 父王シャルル2世とオルレアン伯ウードの娘エルマントルド・ドルレアンの長男。父王の死去をもって、西フランク王国(フランス)の王位に就いた。 ローマ教皇ヨハネス8世Ioannes VⅢは彼をローマ皇帝の帝位に就かせようしたが、その死により叶わなかった。
- 分割統治期間
Louis Ⅲ
Carloman Ⅱ
879~882 - 先王ルイ2世死後、残された兄弟は対立し、兄ルイ3世(ネウストリア)とカルロマン2世(ブルゴーニュとアキテーヌ)の分割統治となった。
22 カルロマン2世
Carloman Ⅱ
882~884 息子 882年に兄ルイ3世が亡くなり、カルロマン2世は統一された西フランク王国の単独での王となった。 しかし、ノルマン人の侵攻と各領主たちとの不和により、王権は限定されていた。
23 カール3世
Karl Ⅲ
884~887 縁戚 東フランク王ルートヴィヒ2世とシュッセンガウ伯ヴェルフの娘ヘンマの息子。東フランク王国国王(882年 - 887年)だったが、879年に兄カールマンよりイタリア領(中部フランク王国)の王位を譲位され、更に884年に西フランク王国先王カルロマン2世の死後、 その王位を戴冠し、再びフランク王国は統一された。
24 ウード
Eudes
888~898 ル・フォール家
le For

ネウストリア侯爵ロベール・ル・フォールRobert le Fortとトゥール伯ユーグHugues de Toursの娘アデライードAdélaïdeとの間に長男として生まれた。 866年の父の没後にネウストリア侯爵位を相続したが、第19代西フランク王国国王シャルル2世Charles Ⅱにより、その侯爵位を剥奪される。 しかし、882(もしくは883)年にパリ伯爵位に叙され、更に第22代西フランク王国国王カルロマン2世Carloman Ⅱの死後、 トゥール伯爵、ブロワ伯爵、アンジェ伯爵と次々に叙位された。 888年に先代フランク王国国王カール3世Karl Ⅲの廃位を受け、ノルマン人撃退の功により、第24代西フランク王国王位に就いた. ここで初めてカロリング王家でない国王が誕生した。
25 シャルル3世
893~ 922 カロリング家
Carolingien
ルイ2世Louice Ⅱと2番目の妻パリ伯アダラールの娘アデライードの三男として生まれ、前王ウードの治世下893年に戴冠し、対立したが、 896年ウードの指名により、第25代西フランク国王となった。しかし、各諸侯と不仲になり反乱され、、 922年に廃位され、その反乱を指揮したロベール1世Robert I(ウードの弟)が王に選ばれた。 923年、シャルルはノルマン人を率いてロベール1世と戦って討ち勝ったものの、ロベールの息子ユーグ大公たちに敗れ、にティエリ城(Château-Thierry)へ囚われた。
26 ロベール1世
Robert Ⅰ
922~923 カペー=ブルゴーニュ家
Capétien=Bourgogne

第24代西フランク国王ウードの弟して生まれたが、898年ウードが死去しても、当初その王位を継ぐことはなく、シャルル3世の王位継承を認めた。 しかし、シャルル3世がアガノンHaganoを重用すると、貴族たちと共に反乱を起こし、廃位に追い込んだ。その功により、第26代西フランク王国王位を獲得した。 カペーとはこの頃修道院長が身に着ける外套のこと。ロベール家は各修道院とのつながりが深かったため、そのニックネーム、王朝名となった。
27 ラウール
Raoul
923~936 娘の婿 ブルゴーニュ公爵リシャールRichard de Bourgogneと、ヴェルフ家オセール伯爵コンラート2世の娘アデライードAdélaïdeの間に生まれ、 921年、パリ伯爵で、後の西フランク王国国王に即位するロベール1世の娘エマEmmaと結婚した。 923年、国王ロベール1世がシャルル3世との戦いで戦死したため、婿のラウールがその王位を継いだ。 936年病死したため、義理の弟でロベール1世の息子ユーグ大公Hugues le Grandの主張により、 イングランドEnglandに亡命していたカロリング家のルイLouice4世(第25代国王シャルル3世の息子)が、次の西フランク王国国王となった。
28 ルイ4世
Louice Ⅳ
936~954 カロリング家
Carolingien
第25代国王シャルル3世とイングランド王エドワードの娘エドギヴァの息子として生まれ、3歳よりイングランドに亡命していたが、 第26代国王ロベール1世の息子ユーグ大公によって呼び戻され、戴冠した。各貴族及びユーグ大公との対立は続いた。 954年落馬事故により死亡した。
29 ロテール
Lothaire
954~986 父王ルイ4世と東フランク王ハインリヒ1世の娘ゲルベルガの長男。954年に父王ルイ4世の事故死により即位した。 パリ伯爵ユーグ大公と大司教ブルーノ1世(ロテールの叔父)の後見下にあり、ロレーヌ地方をドイツ王オットー2世Ottoから奪おうとしたが、 これに失敗、両者は980年講和条約を結んだ。しかし、この頃からユーグ大公の息子ユーグ・カペーと対立し、986年に死去した。
30 ルイ5世
Louice Ⅴ
986~987 息子 父王ロテールとイタリア王ロターリオ2世Lotario Ⅱの娘エンマとの間に生まれた。 979年、父王の在位中に共同統治王として戴冠、986年父王が死去すると単独統治を開始した。 しかし、ユーグ・カペーの領地での狩猟中に落馬して死亡し、これを持ってカロリング王朝は没した。
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31 ユーグ・カペー
Hugues Capet
987~996 カぺー家
Capet
ユーグ大公とザクセンのヘートヴィヒ(Hedwige)と間の長男。956年父ユーグ大公が死去したためロベール家の家長となり、16歳でフランク公爵位を継承した。 父亡き後、配下の離反が続き、その領地はわずかになった。 先王ルイ5世亡き後、カトリック教会の支援で国王選挙に勝利し、西フランク王国王位についた。 これ以降、同国はフランス王国となったと解釈されているが、その領地はオルレアンとパリ周辺に限られていた。 ユーグはこれ以降の国王選挙を行わせない為、即位した同年にその息子ロベール2世を共同統治者にした。
32 ロベール2世
Robert Ⅱ
996~1031 長男 父王ユーグとアキテーヌ公ギヨーム3世の娘アデライードの長男。父王亡き後、フランス王国の単独統治を始めたが、父王を見習い、長男ユーグを共同統治者にしたところ、、 ユーグは父王に反乱し戦死したため、次王を次男アンリとしたが、これまた父王に反旗を翻し、更に三男ロベールにも反乱を起こされ、戦死した。 「敬虔王」と呼ばれるほど、敬虔なカトリック教徒だった。
33 アンリ1世
Henri Ⅰ
1031~1060 次男 父王ロベール2世と3番目の王妃コンスタンス・ダルルの間の次男。父王と共同統治者になったが、反乱を起こし、父亡き後、フランスを単独統治した。
34 フィリップ1世
Philippe Ⅰ
1060~1108 息子 父王アンリとキエフ大公ヤロスラフ1世の娘アンヌ・ド・キエフの長男(?)。その在位中にローマ教皇ウルバヌス2世による十字軍運動(イスラム教徒からのイスラエル奪還)が始まるが、 フィリップは自身の離婚問題でカトリック教会から破門されたため、1096年の最初の十字軍遠征には参加できなかった(弟ユーグが参加した)。 そのため、その権威は失墜し、実権は王子ルイ6世に握られた。
35 ルイ6世
Louice Ⅵ
1108~1137 長男 父王フィリップとフランドル伯ロベール1世の養女ベルト・ド・オランドフランスの長男。諸侯の反乱に対して、親友のシュジェールSuger(サン=ドニ大修道院院長)を政治顧問として、 宗教政策による諸侯の統率、対立するイングランドとの交渉を行なって、国内の安定化に努めた。 ローマ皇帝ハインリヒ5世Heinrich Vの侵攻を受けるが、シュジェールは聖ドニの軍旗である「オリフラムoriflamme」を掲げることで、 信仰心で諸侯を結集させ、ローマ帝国を撃退した。また、シュジェール主導で修道院改革も行なわれた。 「肥満王」または「戦争王」と呼ばれた。
36 ルイ7世
Louice Ⅶ
1137~1180 長男 父王ルイと2番目の王妃アデル・ド・サヴォワの長男。1137年から父王と共同統治を行った。1137年にアキテーヌ女公アリエノールAliénorと結婚したが、 男子に恵まれず、その離婚により、フランス国内に領土を持つプランタジネット家と対立し、 その後アリエノールがイングランド王ヘンリ2世と再婚したため、広大なアキテーヌ公領はイングランドの領地となってしまった。「若干王」と呼ばれた。
37 フィリップ2世
Philippe Ⅱ
1180~1223 息子 父王ルイと王妃シャンパーニュ伯ティボー2世の娘アデルの子。15歳で即位した。父王の時にイングランドに奪われたアキテーヌ公領を奪い返すため、イングランド王ヘンリ2世の息子リチャードに反乱させ、 その父王を討たせた。その後、リチャード(1世)はイングランド王に即位した。しかし、1189年の3回目の十字軍遠征で共に戦ったものの、 フィリップ2世はリチャードのイングランド留守中に弟ジョンに再び反乱を起こさせ、今度はそのジョンの結婚騒動に乗じて、 1206年にフランス国内のプランタジネット家の領土を取り戻した。 「尊厳王」と呼ばれた。
38 ルイ8世
Louice Ⅷ
1223~1226 長男 父王フィリップとカロリング家の血を引いていたイザベル・ド・エノーの長男。 1216年、第3代イングランド王ジョンJohnに批判的なイングランド諸侯と共に侵攻し、第1次バロン戦争を起こした。 国内のアルビジョワ十字軍に参加し、南フランスの領土を広げたが、 そのパリ凱旋中に毒殺された。 父王フィリップ2世とこのルイ8世の頃にフランスの中央集権化が進んだ。「獅子王」と呼ばれた。
39 ルイ9世
Louice Ⅸ
1226~1270 六男 父王ルイとカスティーリャ王アルフォンソ8世の娘ブランシュの六男。1248年の第6回十字軍に参加したが、エジプトで捕虜となり、多額の身代金を要求された。 1270年の第7回十字軍の参加するも、チュニジアに遠征中にペストにかかり亡くなった。 死後、カトリック教会から聖人の一人に列せられた。「聖王」と呼ばれた。
40 フィリップ3世
Philippe Ⅲ
1270~1285 次男 父王ルイ9世と王妃マルグリット・ド・プロヴァンスの次男として生まれた。 父王ルイ9世と共に第7回(最後の)十字軍に参加していたが、父の病死により、フランスに戻り即位した。 しかし、アラゴン王国(現スペインのアラゴン州)への侵攻に失敗、その帰りに自身も病死した。 「豪胆王」と呼ばれた。
41 フィリップ4世
Philippe Ⅳ
1285~1314 父王フィリップ3世と最初の王妃イザベル・ダラゴンの子。 アラゴンへの遠征の帰りに病死した父フィリップ3世の後を継いで即位した。 絶対王政へとつながる中央集権化を進めた。また、聖職者に課税を課すことでローマ教皇と対立するが、これに勝利し、 フランス王権有利の教皇庁をフランス国内アヴィニョンに移転させた。さらにテンプル騎士団に異端の汚名を着せ、壊滅させた。 「端麗王」と呼ばれた。
42 ルイ10世
Louice Ⅹ
1314~1316 長男 父王フィリップ4世と王妃ナバラ女王フアナの長男。隣接するブルゴーニュ公国やイングランドとの争いが絶えず、 その治世も短かった。「喧嘩王」と呼ばれた。
43 ジャン1世
Jean Ⅰ
1316 長男 父王ルイ10世と2番目の王妃クレマンス・ド・オングリーの長男として、父王亡き後生まれたため、「遺児王」と呼ばれた。 自身も生後まもなく亡くなった。
44 フィリップ5世
Philippe Ⅴ
1316~1322 叔父 第41代国王フィリップ4世とナバラ女王フアナの次男として生まれた。先王ジャン1世の早逝により、 ルイ10世の娘ジャンヌを次期国王として望む声もあったが、これに反対し、自身が即位した。「長身王」と呼ばれた。
45 シャルル4世
Charles Ⅳ
1322~1328 第41代国王フィリップ4世とナバラ女王フアナの三男として生まれたが、フィリップ5世が息子の無いまま死去したため、即位した。 カペー朝最後のフランス王となった
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46 フィリップ6世
Philippe Ⅵ
1328~1350 ヴァロワ家
Valois
従兄弟 第40代国王フィリップ3世の四男ヴァロワ伯シャルルと最初の王妃マルグリットの長男。 フィリップ4世から男系男子が途絶えたため、貴族と聖職者の会議により即位した。 しかし、当時のイングランド国王エドワード3世はフィリップ4世の孫であったため、これに異を唱えたが、 更にはイングランド王家プランタジネット家はフランス臣下の家系でもあったため、フランス王位継承を断念した。 1333年、エドワード3世と対立したスコットランド王デイヴィッド2世がフランスに亡命、逆に、 アルトワ伯領を巡ってフィリップ6世と対立したロベール3世がイングランドに亡命したことで、 フィリップ6世はエドワード3世よりアキテーヌ公領およびポンティユー伯領を没収した。 1337年エドワード3世が再びフランスの王位を主張し、英仏百年戦争が勃発した。
47 ジャン2世
Jean Ⅱ
1350~1364 長男 父王フィリップ6世と王妃ジャンヌ・ド・ブルゴーニュの子として生まれた。 父の後を継いで長男シャルルと共にイングランドと戦ったが、1356年にポワティエの戦いに敗北して捕虜となった。 その後、フランスはシャルルが摂政として統治し、ジャン2世はイングランドで亡くなった。 「善良王」と呼ばれた。
48 シャルル5世
Charles Ⅴ
1364~1380
父王ジャン2世とボンヌ・ド・リュクサンブールの子として生まれた。 11歳で最初のドーファン(法定推定相続人)となった。 父の従妹ジャンヌ・ド・ブルボンと近親婚したため、後の影響はこのためとされる。 1360年、イングランドとブレティニ・カレー条約を結ぶことに成功した。 また、父王の治世に奪われた領地の奪還、中央集権の強化にも成果を挙げた。 「賢王」と呼ばれた。
49 シャルル6世
Charles Ⅳ
1380~1422 長男 父王シャルル5世と王妃ジャンヌ・ド・ブルボンの長男。精神的に不安定だったため「狂気王」と名付けられた。 「燃える人の舞踏会」事件後、シャルル6世は事実上政務を執ることが不可能となり、息子ジャン1世を中心とするブルゴーニュ派と、 王弟オルレアン公たちシャルル6世を支持するアルマニャック派に宮廷内部が分裂し、主導権闘争が起こった。これにイングランド王ヘンリー5世は巧みに介入し、 イングランド軍をフランスに侵攻させ、結果、1420年のトロワ条約でヘンリー5世のフランス王位継承が決まった。 しかし、実際にヘンリー5世はフランス王位を継承することないまま亡くなった。
50 シャルル7世
Charles Ⅶ
1422~1461 五男 父王シャルル6世と王妃イザボー・ド・バヴィエールの五男として生まれた。 父王の代から続くブルゴーニュ派とアルマニャック派の内戦状態にあり、 イングランド王ヘンリー5世はブルゴーニュ派と結託して、1428年にはアルマニャック派の拠点オルレアンを包囲した。 しかし、1429年に「神の声を聞いた」とする農民の娘ジャンヌ・ダルクの活躍により、イングランド軍は撤退せざるを得なくなった。 結果、イングランド王ヘンリー5世はせっかく得たフランスの王位継承を果たせぬまま亡くなり、父王シャルル6世や兄達も続いて亡くなったため、 五男のシャルル7世が王位を継承した。 ちなみにその後、ジャンヌ・ダルクはブルゴーニュ派に捕らえられ、イングランドの魔女裁判により火あぶりにされた。 しかし、その存在と死によりフランス軍の戦意は高まり、フランス国内のイングランド領を奪回した。 ここで英仏の百年戦争は幕を閉じた。「勝利王」と呼ばれた。
51 ルイ11世
Louice Ⅺ
1461~1483
父王シャルル7世とヴァロワ=アンジュー家マリー・ダンジューとの長男として生まれた。 即位後はフランスの中央集権の強化を図り、1467年から10年に渡ってブルゴーニュ公国シャルルに戦いを挑み、その捕虜となったりした。 しかし、シャルルが戦死した後、1482年のアラス条約でブルゴーニュなどの領地を拡大していった。 「慎重王」と呼ばれた。
52 シャルル8世
Charles Ⅷ
1483~1498
父王ルイ11世とシャルロット・ド・サヴォワの三男(?)として生まれ、13歳で即位した。 姉アンヌと義兄義兄ブルボン公ピエール2世夫妻の摂政下にて、 ハプスブルク家Habsburgのローマ王(のちの神聖ローマ皇帝)マクシミリアン1世Maximilian Iの娘で、誘拐されたマルグリットMargueriteと結婚した。 一方、マクシミリアン1世はブルターニュ公国の継承権を持つアンヌ・ド・ブルターニュAnne de Bretagneと婚約していた。 しかし、シャルル8世はマルグリットと離婚したが、その自由を与えないまま、1491年にアンヌと政略結婚した。 その結婚後、親政を始めたシャルル8世は1494年、イタリア戦争を起こした。 一時はナポリを陥落させるも、ヴェネツィア共和国やローマ教皇アレクサンデル6世Alexander VIらに包囲され敗走した。
53 ルイ12世
Louice Ⅻ
1498~1515 縁戚 1498年に先王シャルル8世の事故死により、その男系男子が途絶えたため、サリカ法により、 第48代シャルル5世の孫オルレアン公シャルルとその3番目の妃マリー・ド・クレーヴの息子が即位した。 即位前は先王シャルル8世に対し反乱もしたが、その後、イタリア戦争に参加した。 即位後、自身もイタリア遠征をして、一時はミラノ公国、ナポリ公国の一部を占領するが、各国の神聖同盟により、 撤退を余儀なくされた。
54 フランソワ1世
François I
1515~1547 ヴァロワ=オルレアン家
Valois=Orléans
親戚 先王ルイ12世には男子がいなかったため、サリカ法により、従兄弟の子フランソワ1世が即位した。 第48代シャルル5世の曾孫で、ルイ12世の従兄弟アングレーム伯シャルル・ドルレアンと、 サヴォイア公フィリッポ2世の娘ルイーズ・ド・サヴォワの子として生まれた。 宗教改革と中央集権の強化、芸術の発達に力を注いだ。レオナルド・ダ・ヴィンチらの芸術活動を支援した。 イタリア戦争を継続させ、一時はミラノ公国を占領した。 フランス北東部で使われていたオイール語(南東部ではオック語)をフランス語と決めた。
55 アンリ2世
Henri Ⅱ
1547~1559 次男 父王フランソワ1世と王妃クロード・ド・フランス(ルイ12世の王女)の次男として生まれた。 対外政策に積極的だったが、うまくいかず、ミラノ公国を放棄し、イタリア戦争は幕を閉じた。 妻はメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディティス。 娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世(ハプスブルグ家)が政略結婚する際の宴で右目を怪我して、それが原因で亡くなった。
56 フランソワ2世
François Ⅱ
1559~1560 長男 父王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの長男として生まれた。 即位する前年にスコットランド女王メアリー・ステュアートと結婚している。 若干15歳だったため、その王妃が実権を握り、プロテスタントの弾圧をした。 持病で亡くなった。
57 シャルル9世
Charles Ⅸ
1561~1574 先々代王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの次男として生まれた。 兄王が早逝したため、10歳で即位した。 結核を患い、病弱だったため、母カトリーヌが実権を握っていた。。 1570年に神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の娘エリザベートと結婚した。
58 アンリ3世
Henri Ⅲ
1574~1589 先々々代王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの三男として生まれた。 フェンシングや芸術、読書を好み、母カトリーヌに溺愛された。 プロテスタントであったが、ローマ・カトリックとして宗教戦争に関与した。その結果、暗殺された。 それによりヴァロワ家は断絶した。
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59 アンリ4世
Henri Ⅳ
1589~1610 ブルボン家
Bourbons
親戚 暗殺された先王アンリ3世には子供がいなかったため、 父ブルボン家のヴァンドーム公アントワーヌと54代王フランソワ1世の姪である母ナバラ女王ジャンヌ・ダルブレの長男アンリが即位した。 摂政カトリーヌ・ド・メディティスの娘(シャルル9世の妹)マルグリットと結婚した。 宗教戦争と王位継承権が絡み、「三アンリの戦い」に巻き込まれ、自身はプロテスタントからカトリックに改宗した。 ナントの勅令を出し、プロテスタントの信仰を正式に許した。 そのせいか、カトリック教徒に暗殺された。
60 ルイ13世
Louice ⅩⅢ
1610~1643 長男 父王アンリ4世と王妃マリー・ド・メディシスの長男として生まれた。 父王の暗殺に伴い、8歳で即位したため、実権は摂政となった母マリーが握っていた。 1622年、国務会議による統治を始めたが、1624年からはリシュリュー枢機卿が宰相として、執務を果たした 結果、絶対王政の強化に成功した。 スペイン王フェリぺ4世の姉アンヌ・ドートリッシュと結婚した。 しかし、アンヌはイギリスのバッキンガム公ジョージとの不倫騒動を起こした。 1635年には三十年戦争にプロテスタント側として参戦した。 北アメリカでの植民地の拡大にも成功した。 結核で病死した。
61 ルイ14世
Louice ⅩⅣ
1643~1715 長男 父王ルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュの長男として生まれた。 父王の死により4歳で即位したため、摂政に母アンヌ、宰相にジュール・マザランが置かれ、フランス史上最長の在位期間となった。 三十年戦争の終わりに新税の導入を図ったが、パリ高等法院の法服貴族と民衆が結びついて反乱(フランドの乱)が、フランスは5年間無政府状態となった。 コンデ公ルイ2世との対立により、国外脱出、帰還を繰り返した。 フランス・スペイン戦争終結により、ピレネー条約で国境が確定した。 その後、スペイン王フェリペ4世の娘マリー・テレーズ・ドートリッシュと結婚した。 アンリ4世の出したナントの勅令廃止し、プロテスタントの信仰を禁止した。 マザラン死去後、親政を始め、絶対王政の強化に成功した。 1700年スペインのハプスブルグ家が断絶すると、自身の孫フィリップをフェリペ5世としてスペイン王位につけた。 「太陽王」とも呼ばれた。ヴェルサイユ宮殿を完成させた。
62 ルイ15世
Louice ⅩⅤ
1715~1774 曾孫 ブルゴーニュ公ルイと妃マリー・アデライード・ド・サヴォワの三男として生まれた。 曾祖父ルイ14世の死によりわずか5歳で即位し、ルイ14世の甥オルレアン公フィリップ2世が摂政となった。 1726年からルイ15世亡くなるまではフルーリー枢機卿が執政をとった。 フランス初の紙幣を発行した。北アメリカ植民地の開発に力を注いだが失敗し、その多くの植民地を失ったが、国内での領地拡大には成功した。 多くの愛人、公娼を持ったが、天然痘で亡くなった。 「最愛王」と呼ばれた。 この治世、ルソーやモンテスキューが活動していた。
63 ルイ16世
Louice ⅩⅥ
1774~1792 父ルイ王太子(ドーファン)、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世の娘)の三男ルイ・オーギュストとして生まれた。 1761年、兄ブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフが結核で死亡、1765年には父の死によりフランス王太子となり、1774年即位した。 財政難に苦しみ、食糧危機に対する暴動が起きた。アメリカ独立戦争時にはアメリカ側を支援した。 1770年、マリー・アントワネットと結婚した。 1789年7月14日にはバスティーユ襲撃に始まるフランス革命が起こり、国王一家はタンプル塔に幽閉された。 1793年1月15日〜1月19日の国民公会でギロチンによる処刑が可決され、1793年1月21日、マリーと共に処刑が執行された。
第一共和政
1792~1804
詳細には1792年~1795年までの国民公会期、1795年~1799年までの総裁政府期、1799年~1804年までの統領政府期に分けられる。
64 ナポレオン1世
Napoléon I
1804~1814 ボナパルト家
Bonaparte
父カルロ・マリア・ブオナパルテと母マリア・レティツィア・ラモリーノの4男としてコルシカ島で生まれた。 1799年、オスマン帝国支配下のエジプトに遠征し、勝利した自らの功績により、統領政府の第一統領(第一執政)となった。 その後、イタリア獲得を目指し、北イタリアをフランスの保護国とした。 1804年にはナポレオン法典を公布、同年、国会の議決と国民投票を経て、世襲でナポレオンの子孫にその位を継がせるという皇帝の地位についた。 しかし、ロシア遠征の失敗により失脚した。
65 ルイ18世
Louis XVIII
1814~1824 ブルボン家
Bourbons
ルイ15世の王太子ルイ・フェルディナンとマリー=ジョゼフ・ド・サクスとの三男として生まれた。 ヨーロッパ列強によるウィーン会議では、ナポレオン1世の部下だったスウェーデン王太子ベルナドットを推されたが、 フランス代表だったタレーラン伯爵とフランス上院のおかげで、ルイが王位につくこととなった。 1814年、立憲君主制を約束するサン=トゥアン宣言を発した後、国王に即位した。 それと共に二院制議会、信教の自由、全ての人民の憲法で規定される権利を公的に保証した。
66 シャルル10世
Charles Ⅹ
1824~1830 ルイ15世の王太子ルイ・フェルディナンとマリー=ジョゼフ・ド・サクスとの四男として生まれた。 フランス革命時にはイギリスに亡命して、ナポレオン体制時にはその暗殺を画策した。 ナポレオンが失脚の様相を見せると、密かにフランスに侵入し、先王ルイ18世の死去により、即位した。 しかし、絶対王政復活を目指したため、国民の反感を買い、1830年の7月革命により王位を追われ、再びイギリスに亡命した。
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67 ルイ=フィリップ1世
Louis Philippe
1830~1848 オルレアン家
Orléans
縁戚 オルレアン家のルイ・フィリップ2世とパンティエーヴル公爵ルイ・ジャン・マリーの娘ルイーズ・マリーの長男として生まれた。 1793年父が処刑されると20歳で公爵位を継いだが、スイスに亡命、さらに諸国を渡り歩き、ナポレオン失脚後、フランスに戻った。 1830年、シャルル10世亡命後、ブルジョワ(中産階級)に擁立され、即位した。 即位後は内閣制を導入し、立憲君主制をアピールした。 七月革命後、フランスは自由主義と資本主義の発達を得たが、プロレタリアート(賃金労働者)による普通選挙の要求が高まると、 政府はこれを弾圧、更に市民の反感を買い、共和主義者と社会主義者によって組織された臨時政府によって共和政が宣言され、再びイギリスに亡命した。
第ニ共和政
1848~1952
ナポレオン3世が第二共和政の大統領(在任:1848年 - 1852年)についた。
68 ナポレオン3世
Napoléon Ⅲ
1852~1870 ボナパルト家
Bonaparte
フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの弟ルイ・ボナパルトとその妃オルタンスの三男として生まれた。 ナポレオン1世の失脚後、長い間亡命生活をした。 その生活中、何度かナポレオン帝政復古を目指したが、すべて失敗し、終身刑にもなった。 しかし、ルイ=フィリップ一世失脚後、フランスに戻り、大統領選に出馬、これに当選した。 その後、1852年皇帝即位を決断し、元老院令によって世襲制の皇帝制が導入された。 これは国民投票にかけられ、大多数の賛成を得た。 1870年、プロイセン軍を中心とするドイツ連合軍と戦争になり、敗北、捕虜となり、廃位してイギリスに亡命せざるを得なかった。
第三共和政
1870~1946
1875年、憲法により、二院制(上院(元老院)と下院(代議院))の議院内閣制となった。 及び、任期7年の大統領が元首となり、両院による多数決で選出されることになった。 第二次世界大戦によるナチスドイツによる占領、フィリップ・ペタンを主席とするヴィシー政権が誕生するまで第三共和政は続いた。
第四共和政
1946~1958
1946年10月27日憲法がフランス共和国臨時政府大統領ジョルジュ・ビドーにより、公布、発効されて始まった。 フランス共和国と保護領・国連委任統治領等の植民地とによるフランス連合を創設された。
第五共和政
1958~
フランス共和国憲法に発効され、現在に至る。
※創作物に使用する場合は敬意をもって使用のこと。
※世数表示は見間違いを防ぐため、アラビア数字で表記した。
※(?)=調査、確認中。
※サリカ法Lex Salica=王位継承は男系男子が継ぐと定めたもの。
※「三アンリの戦い」=アンリ3世(カトリック)、アンリ4世(プロテスタント)、ギーズ公アンリ(カトリック強硬派)の戦い。 アンリ3世がギーズ公を暗殺後、アンリ3世も暗殺された。
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