歴代王名一覧(英国)
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王名 在位 王朝名
備考/正式称号
ウィリアム1世
William Ⅰ
1066~1087 ノルマン家
Norman
「征服王」(The Conqueror)と呼ばれ、 統一イングランドの最初の王。 フランスのノルマンディー公の愛人の子として生まれるが、 公に嫡男がいなかったため公位を継いだ。 1066年ヘイスティングの戦いでハロルド2世(ウェセックス伯の長男)の軍を破り、王位に就いた。 ウィンザー城を建設した。ウェストミンスター・アベイでの戴冠式の先例になった。
By the Grace of God, King of England, Duke of Normandy
ウィリアム2世
William Ⅱ
1087~1100
父王ウィリアム1世の三男として生まれ、父の他界により王位に就いた。 赤毛のひげだったため「赤顔王」(Ruddy Face)と呼ばれた。
同上(前王と同じ)
ヘンリー1世
Henry Ⅰ
1100~1135 先々王ウィリアム1世の四男として生まれ、兄王の事故死により王位を継いだ。 長兄のノルマンディー公ロベールをカーディフ城に終生幽閉した。 戴冠式当日に、法統治、人民の自由を謳った「戴冠憲章」(Coronation Charter)を発布し、 「碩学王」(Beauclerc)と呼ばれた。 好色王としても知られ、八人もの愛妾との間に20(25?)人もの庶子をなした。
同上(前王と同じ)
スティーヴン1世
Steven Ⅰ
1135~54 ブロワ伯シオボルド3世 Theobald Ⅲとウィリアム1世の四女アデラ Adelaの子として生まれる。 前王ヘンリー1世が後継者を指名しないまま他界したため、ロンドン市民の支持で王位に就いたが、 貴族の支持を受けたマティルダ(前王の娘)と内戦に突入した。 内戦は13年も続いたが、スティーヴンの次王をマティルダの息子ヘンリーにすることで和解した。 (1153年、ウォリングフォード協定)
同上(前王と同じ)
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ヘンリー2世
Henry Ⅱ
1154~1189 プランタジネット家
PLantagenet




ヘンリー1世の娘マティルダとアンジュー伯ジョフリーの子。 アキテーヌ公ウィリアムの娘エリナ―と結婚し、さらにルイ7世と戦いブルターニュを、 ウェイルズ、アイルランド東部に侵攻し、ヨーロッパ一の領主になった。 全国的な司法権を確立し、教会の裁判権を制限した。 愛妾ロザモンド・クリフォードをエリナ―の確執により、息子達と戦火を交えて没した。
By the Grace of God, King of England, Duke of Normandy and Aquitaine, Count of Anjou.
リチャード1世
Richard Ⅰ
1189~1199
「獅子王」(The Lion Hearted)と呼ばれた。 十字軍遠征に力を入れ、サラセン人を虐殺した。 その遠征の途中でオーストリア公に捕らえられ、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世に引き渡された。 フランス王フィリップ2世とフランスの領土問題で1195年、ノルマンディーで戦火を交えた。 その戦時中に他界したため、ほとんどイングランドを留守にしていたが、 イングランド王で最初の紋章使用者として知られる。(「ライオン三頭」の紋章)
By the Grace of God, King of England, Duke of Normandy and Aquitaine, Earl of Anjou, etc.
ジョン
John
1199~1216 ヘンリー2世とエリナ―の五男として生まれたが、 兄達と違い与えられた領地がなかったので、「欠地王」(Lackland)と呼ばれた。 カンタベリー大司教の就任問題で法皇インノケンティウス三世に破門されたが、3年後に服従した。 重税、慣習無視などで貴族達の反感を買い、1215年マグナ・カルタへの調印を迫られた。 しかしわずか2ヶ月後、法皇の命によりマグナ・カルタの廃棄を宣言したため、内戦に突入し、そのさなか病死した。
By the Grace of God, King of England, Lord of Ireland, Duke of Normandy and Aquitaine, Count of Anjou.
ヘンリー3世
Henry Ⅲ
1216~1272
父王ジョンと2度目の王妃イザベル・オブ・アングレームの間に生まれ、10歳で王位を継いだ。 その当時、ロンドンはフランス軍占領下にあったため、グロースターで戴冠した。 ペンブルグ伯ウィリアム・マーシャル、続いてヒューバート・ドゥ・バラ(義父)を摂政としたが、 ペンブルグ伯後の内政はことごとく失敗した。 1242年、フランス内の失地回復のため出陣するが、これも失敗しポワトゥーを放棄、 続いて1260年にはノルマンディーを放棄してフランスと和解した。 1264年オックスフォード条例をめぐって義弟レスター伯シモンと内戦になり、 皇太子エドワード(次王)と共に逮捕され、その一年もの間シモンが統治した。 この間に開かれた議会がパーラメント(Parliament)と呼ばれた。
By the Grace of God, King of England, Lord of Ireland, Duke of Normandy and Aquitaine.
エドワード1世
Edward Ⅰ
1272~1307
父王ヘンリー3世と王妃エリナーの間に生まれ、 レスター伯シモンを倒し王位を取り戻した。 十字軍遠征から帰国後、内政改革、教会の権力に制限を加え、ウェイルズを完全に併合(1283年)した。 続いて1292年、スコットランド国王を臣従させることに成功した。 またウェイルズ公の血筋が絶えたことから、皇太子をウェイルズ公に叙位する制度を始めた。
By the Grace of God, King of England, Lord of Ireland, and Duke of Aquitaine.
10 エドワード2世
Edward Ⅱ
1307~1327
父王エドワード1世と王妃エリナーとの間に生まれる。 皇太子時代から親友との同性愛関係におぼれ、1314年ノックバーンの戦いで敗戦することで、 スコットランドの完全独立を許してしまう。 1327年王妃イゼベルとその寵臣マーチ伯ロジャー・ドゥ・モティマーにより王位を追われ、殺害される。
同上(前王と同じ)
11 エドワード3世
Edward Ⅲ
1327~1377
父王エドワード2世の長男として生まれ、15歳で王位に就いたが、 その時王権は母イザベルと寵臣マーチ伯ロジャーにあったため、1330年マーチ伯を逮捕・処刑した。 1333年にはハリドン・ヒルの戦いで勝利し、再びスコットランド国王を臣従させた。 さらに1337年フランスに宣戦布告、1340年母イザベルにフランスの王の称号を与えた。 1360年のブレティ二の講和ではフランス王位の継承権を放棄する代わりに、アキテーヌ、カレー、 ポーンティアなどの主権を獲得した。 1348年にはガーター騎士団を創設した。 しかし、1348年、1349年、1361年、1368年のペストの蔓延により国力は弱体化、 1375年のブルーズでの休戦をもって英仏戦争を終結させた。
By the Grace of God, King of France and England and Lord of Ireland, Duke of Aquitaine.
12 リチャード2世
Richard Ⅱ
1377~1399 エドワード3世の息子、皇太子エドワードが王位に就くことなく病没したため、 その息子(次男)であるリチャードが10歳で王位を継いだ。 叔父のランカスター公ジョン、ヨーク公エドマンドの摂政を受けたが、 ワット・タイラーによる農民一揆を制圧後は親政にあたるようになった。 しかし、次第に専制に傾き貴族や国民の反感を買い、 従兄弟のヘンリー・ボリンブロク(ランカスター公の息子、後のヘンリー4世)に逮捕され(1399年)、王位を追われた。 1400年、ポンティフラクト城で処刑された。
By the Grace of God, King of France and England and Lord of Ireland.
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13 ヘンリー4世
Henry Ⅳ
1399~1413 ランカスター家
Lancaster


ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントとブランシュ・オブ・ゴーントの四男に生まれた。 1397年ヘレフォード公になるが、翌年前国王リチャード2世に国外追放される。 さらに翌年亡命先から帰国、挙兵してリチャード2世を逮捕、幽閉して王位を奪った。 しかし、前国王派の反乱が続き内政には専念できなかった。
By the Grace of God, King of England and France and Lord of Ireland.
14 ヘンリー5世
Henry Ⅴ
1413~1422
父王ヘンリー4世と最初の王妃メアリー・ドゥ・ブーンの次男として生まれる。 1415年フランスに侵攻し大勝利を収め、1418年にはかつてヘンリー2世が持っていた領地を奪い返した。 1420年にはフランスと講和を結び、フランスの半分の領土でイングランドの主権を認めさせた。 また自分をフランス国王シャルル6世の王位継承者として認めさせ、その王女キャサリンと結婚した。 しかし、翌年にはフランス国内の占領地で反乱が起こり出陣するが、戦地で赤痢にかかり他界した。
同上(前王と同じ)
15 ヘンリー6世
Henry Ⅵ
1422~1461 (1470~1471)
父王ヘンリー5世と王妃キャサリン・オブ・ヴァロアの長男に生まれるが、 父王の急死でわずか生後8ヶ月で王位を継いだ。 その翌月には祖父エドワード4世の結んだトゥロワ条約により、フランス王位も継いだ。 しかし幼王ヘンリーは、ヘンリー5世の弟グロースター公ハンフリーとウィンチェスター司教ヘンリー・ボーフォートの主導権争いに巻き込まれ、 さらにボーフォート側の策略で王妃マーガレット・オブ・アンジューとの結婚後はボーフォートとマーガレットの牛耳る宮廷となった。 続いて1447年のボーフォートの他界後は「赤いばらの女王マーガレット」が君臨した。 そこに幼王の精神異常の体質が加わり、ヨーク家のつけいる隙を与え、 ばら戦争に突入した。 1450年のジョン・ケイドの起こした一揆でヨーク公リチャード・プランタジネットに王位継承権を認めさせる結果となるが、 1455年ランカスター対ヨークの戦いとなりその後30年に及ぶばら戦争に突入した。 1461年のモーティマーズ・クロスでのヨーク軍の勝利により、ヘンリー6世は退位、 エドワード4世が即位する。 しかし、1470年には再びヘンリーが復位するが、翌年にはまたエドワードが王位を奪った。 1440年のイートン校(パブリックスクール)、1441年のキングス・カレッジ創設は彼の発案による。
同上(前王と同じ)
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16 エドワード4世
Edward Ⅳ
1461~1470 (1471~1483) ヨーク家
York

ヨーク公リチャード・プランタジネットと初代ウェストマランド伯ラルフ・ネヴィルの娘シシリーとの次男として生まれるが、 前国王ヘンリー六世の曽祖父ジョンの弟エドマンドの子孫に当たる。 まず父方の祖母アン・モーティマーのマーチ伯位を継ぎ、1460年父がウェイクフィールドの戦いで戦死後、ヨーク公位を継いだ。 さらに翌年のモーティマーズ・クロスの戦いで勝利し、王位を宣言した。 しかし、それまでの協力者ウォーリック伯リチャード・ネヴィルを無視してランカスター派騎士の未亡人エリザべス・ウッドヴィルと結婚したことで、 ウォーリック伯との関係が悪化し、これが1470年の退位に繋がった。 エドワードはフランスに逃れるが翌1471年帰国・挙兵し、ヘンリー6世を逮捕、さらにウォーリック伯ををバーネットの戦いで戦死に追いやった。 続いてヘンリー6世の皇太子エドワード・オブ・ウェストミンスターをテュークスベリーの戦いにおいて殺害し、復位を確かなものにした。 復位後は財政の整備に努めるなどしたが、王妃エリザベスの一族を中心とする側近重視の政治を行った。
同上(前王と同じ)
17 エドワード5世
Edward Ⅴ
1483
父王エドワード4世と王妃エリザベスの第4子として生まれる。 1471年の父王の復位後は王妃の弟リヴァーズ伯アンソニー・ウッドヴィルの護衛を受けていたが、 1483年父王が他界するとリヴァーズ伯は逮捕され、エドワードはロンドン塔に幽閉された。 さらに摂政のグロースター公リチャード(次王)のエドワード5世の退位計画によって、 エドワード4世と王妃エリザベス(5世の母)との結婚自体が無効であった(1483年)とされ、 直後にリチャード自身がリチャード3世として即位した。
同上(前王と同じ)
18 リチャード3世
Richard Ⅲ
1483~1485
ヨーク公リチャード・プランタジネットと初代ウェストマランド伯ラルフ・ネヴィルの娘シシリーとの八男(第12子)として生まれるが、 長兄エドワードが1461年に王位に就くとグロースター公に叙爵された。 リチャードは一貫して長兄に協力し、その皇太子エドワードが王位を継承することにも議会で賛成したが、 長兄が他界するやいなや、自身が王位に就こうと行動した。 当然、即位後も政情は安定せず、1485年ランカスター派のリッチモンド伯ヘンリーの亡命先からの帰国、挙兵(ボズワースの戦い)に屈し戦死した。 その後、リッチモンド伯自身がヘンリー7世として即位した。
同上(前王と同じ)
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19 ヘンリー7世
Henry Ⅶ
1485~1509 テューダー家
Tudor



リッチモンド伯エドマンド・テューダーと初代サマセット公ジョン・ボーフォートの娘マーガレットの子として生まれた。 父方のリッチモンド伯にはイングランド王家との血縁関係はなく、母方のランカスター公系の血もリチャード2世、 ヘンリー4世によって王位継承権を否定されていた。 そのため母のマーガレットは、ヘンリーの王妃にエドワード4世の長女エリザベス・オブ・ヨーク(王位継承権を持つ)を迎えさせた。 しかし、リチャード3世を倒して王位に就いたことはたびたび自身の安全を脅かした。 その対策して創設されたのが、現在にも続く「ヨーメン・オブ・ザ・ガーズ」である。 その安定後は、1487年に創設した星法庁、国王評議会の権力強化により新王制への第一歩を踏み出した。 また1497年から1507年まで毎年議会を開き、立法面にも大きく貢献した。 軍隊よりも外交による国際関係政策に方針転換した。
同上(前王と同じ)
20 ヘンリー8世
Henry Ⅷ
1509~1547
父王ヘンリー7世と王妃エリザベスの次男として生まれた。 1502年コーンウォール公に叙爵、1504年にプリンス・オブ・ウェールズに叙位された。 ラテン語、フランス語、スペイン語に通じ、宗教改革者マルティン・ルターを批判する著作を発表した。 王位に就いた直後、兄アーサーの未亡人であるキャサリン・オブ・アラゴンと結婚したが、男子が生まれないことで離別した。 神聖同盟に加わり、フランスの同盟国スコットランド軍の侵入では1513年フロドゥンの戦いで大勝、 スコットランド王ジェイムズ4世を戦死させた。 大法官で枢機卿でもあるトマス・ウールジのおかげでローマ法王、皇帝カール5世とも強調し、 フランス王フランソワ1世を封じ込めた。 しかし、キャサリンとの離別、アン・ブリーンとの再婚でイングランドはローマと断絶し、 1534年、イングランド国教会を発足させた。 海軍を増強したが、宰相を含め50人を処刑したことで専制君主として知られている。
1509~1521
By the Grace of God, King of England and France and Lord of Ireland.
1521~1542
By the Grace of God, King of England and France and Lord of Ireland, Defender of the Faith.
1542~1544
By the Grace of God, King of England, France and Ireland,
Defender of the Faith.
1544~1547
By the Grace of God, King of England, France and Ireland,
Defender of the Faith, and on earth of the Church of England and Ireland the Supreme Head.
21 エドワード6世
Edward Ⅵ
1547~1553
父王ヘンリー8世と3度目の王妃ジェーン・シーモアの子として生まれ、 わずか9歳で王位を継いだ。 そのため母ジェーンの長兄であるハーファド伯エドワード・シーモア(直後サマセット公に)が摂政となった。 しかし、内政・外政共に失敗し、加えてそのサマセット公の弟トマス・シーモアが王権に介入しようとシーモア事件(1549年)を起こし、窮地に陥った。 またそこにウォーリック伯ジョン・ダドリー(後にノーサンバランド公)が介入して、サマセット公は処刑された。 さらにノーサンバランド公は、ヘンリー7世の三女メアリー・テューダーの孫ジェーン・グレイを次王にする密約をエドワードに結ばせた。 またエドワードは歴代皇太子が叙位されるプリンス・オブ・ウェールズの称号を受けなかった唯一の例外となった。
By the Grace of God, King of England, France and Ireland,
Defender of the Faith, and on earth of the Church of England and Ireland the Supreme Head.
22 ジェーン・グレイ
Jane Grey
1553
サフォーク公ヘンリー・グレイと二度目の妻フランセス・ブランドンの長女として生まれたが、 ヘンリー7世の三女メアリー・テューダーの孫に当たる(母方)。 前国王のエドワード6世の時代に、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーの策略によって王位を継ぐことになった。 ノーサンバランド公は自分の四男ギルフォード・ダドリーとジェーンを結婚させた。 しかし、4代ノーフォーク公トマス・ハワードらのメアリ1世(次王)派によって、わずか九日の在位となった。 このため、ジェーンは「九日女王」(The Nine Days' Queen)と呼ばれた。
23 メアリ1世
Mary Ⅰ
1553~1558

ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの六番目の子として生まれた。 父王ヘンリー8世は男子が育たないことで王妃キャサリンとの結婚は無効だったと言い出したので、 メアリは17才でプリンセスの称号を失った。 父王死後、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーによって王位はジェーン・グレイのものとなったが、 ノーフォーク公トマス・ハワードらの反対によって王位はメアリの物となった。 しかし、彼女はカトリックであったため、プロテスタントへの改宗を望む議会と対立し、 それでも強硬に「法皇至上主義」を掲げ「ブラッディ・マリー」と呼ばれるほどプロテスタント弾圧を行った。 即位の翌年には従兄弟であるスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール1世)の長男フェリペと結婚した。 300人ものプロテスタント指導者を処刑した。
1553~1554
By the Grace of God, King of England, France and Ireland,
Defender of the Faith, and on earth of the Church of England and Ireland the Supreme Head.
1554(Mary and Philip)
By the Grace of God, King and Queen of England, France, Naples,Jerusalem and Ireland,
Defenders of the Faith, Princes of Spain and the two Sciclies, Archdukes of Austria,
Dukes of Milan, Burgundy and Brabant, Counts of Hapsburg, Flanders and Tyrol.
1555~1558
By the Grace of God, King and Queen of England, France, Naples,Jerusalem and Ireland,
Defenders of the Faith, Princes of Spain and the two Sciclies,
Dukes of Milan, Burgundy and Brabant, Flanders and Tyrol.
24 エリザベス1世
Elizabeth Ⅰ
1558~1603

ヘンリー8世と2度目の王妃アン・ブーリンの子として生まれた。 3歳の時に母アンが処刑されたため、王位継承権、プリンセスの称号共に失った。 前女王とは腹違いの姉妹となり妾腹の子として蔑まれたが、メアリは死の床でエリザベスが王位に就くことに同意した。 フランス王アンリ2世の横槍(+ローマ法王)が入るほど彼女の王位は不安定であった。 しかし、ヘンリー8世の最後の王妃で義母のキャサリン・バーの配慮で受けた高い教養と意志で難を乗り切った。 アンリ2世が他界すると、英国国教会の基盤を確かなものにした。 貴族でない有能な人材を登用し平和主義外交を目指したが、1587年スコットランド女王メアリの処刑によって、 スペインの無敵艦隊の襲撃を受けたが、1588年にはこれを撃破した。 生涯独身を通し、子供を残さなかった。 皮肉なことに、次の王位はエリザベスが処刑に同意したスコットランド女王メアリの長男ジェイムズ6世に継がれた。
By the Grace of God, of England, France and Ireland,
Queen, Defender of the Faith, Etc.
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25 ジェイムズ1世
James Ⅰ
1603~1625 ステュアート家
Stuart

スコットランド女王メアリと二度目の夫ダーンリー卿ヘンリー・ステュワートの子として生まれ、 同時にロスシー公として叙爵され、翌1567年にはスコットランド王ジェイムズ6世となった。 1607年未婚のまま前イングランド女王エリザベス1世がなくなったので、宰相ロバート・セシルによって、 ジェイムズ6世がイングランド王ジェイムズ1世となり、イングランドとスコットランドは「同君連合」(personal union)となった。 ジェイムズはヘンリー8世の姉メアリー・テューダー(スコットランド王ジェイム4世の王妃)の曾孫に当たる。 イングランド王即位後、自身はロンドンに身を起き、スコットランドの統治はレノックス公リュドヴィック・ステュアートに任せた。 ジェイムズは国教会を中心にし、ピューリタンとカトリックの排除を公言したため、陰謀事件が起きるほど反感を買ったが、 同時にカトリックのスペインにも気を使ったので、「キリスト教圏で最も賢明で愚かな王」と評された。 歴代国王の中では珍しく愛妾を持たず、男色傾向があり初代バッキンガム公ジョージ・ウィリアーズを寵愛した。
By the Grace of God, of England, Scotland, France and Ireland,
King, Defender of the Faith, Etc.
26 チャールズ1世
Charles Ⅰ
1625~1649
スコットランド王ジェイムズ6世と王妃アンの次男として生まれ、 父王がイングランド王に即位した翌年に兄の皇太子ヘンリー・フレデリックと共にロンドンに移った。 しかし、兄が1612年に早世したのでスコットランド、イングランド両国の皇太子となった。 両国の国王として即位した1625年にスペインに遠征、1627年にはフランスの新教徒救援に出るが共に失敗、 その戦費で議会と衝突した。 その後11年間も議会を開かず、多種の徴税を課した。 一方、カンタベリー大司教ウィリアム・ロードの進言で国教会の統一を計るが、 これをスコットランドにも強要したため、1639年には反乱軍がイングランドに侵入した。 1640年この問題で開かれた議会で更に対決が強まり、チャールズが反国王派を逮捕したことから 1642年王党軍と議会軍の内戦が始まった。 1646年にチャールズはスコットランド軍に投降・議会軍に引き渡され、1649年に人民裁判で死刑を宣告された。
同上(前王と同じ)
不在期間 1649~1660 備考
27 チャールズ2世
Charles Ⅱ
1660~1685
父王チャールズ1世と王妃ヘンリエッタ・マリアの次男として生まれ、 兄チャールズ・ジェイムズが出産直後に死亡していたことから、出生と同時にコーンウォール公、 ロスシー公の爵位(国王の長子に与えられる)を与えられた。 1642年、父王と議会の対立に発する内戦状態のため、フランス、ネーデルランドに亡命していた。 その頃から好色として知られ、少なくとも愛人が13人、庶子が14人以上もいたとされる。 しかし「陽気な王様」(Merry Monarch)としても知られ、国民に愛された。 1651年スコットランド王としての戴冠式を行い、イングランド王位の奪還を計るが大敗するが、 イングランド国内ではオリヴァー・クロムウェルの軍事独裁が嫌われていて、 ブレダ宣言を認めることで1660年の誕生日にイングランドでの王政復古を達成した。 しかし、1665年のペストの蔓延、翌年のロンドンの大火で困難を極めた。 1670年にはフランス王ルイ14世とドーヴァ秘密条約を結び、反オランダ、カトリックの再興を目指したが、 実現はしなかった。 むしろ公務員を国教徒に制限せざるを得なくなった(1673年審査律)。 1678年には国王派のダンビ伯トマス・オズボーンと反国王派のシャフツベリー伯アントニー・アシュレー・クーパーの政争が続き、 これが王権派のトーリー党 Toryと反王権のホイッグ党 Whigの発足に繋がった。
同上(前王と同じ)
28 ジェイムズ2世
James Ⅱ
1685~1688 チャールズ1世と王妃ヘンリエッタの三男として生まれ、 同時にヨーク公位を与えられて、これ以降ヨーク公位は国王の次男に与えられる爵位として定着した。 9歳の時に起きた内戦で一時は議会軍の監視下に置かれたが、その後亡命してフランス軍、スペイン軍に身を置いた。 王政復古後は海軍の拡充に努め、オランダ軍を度々駆逐したが、カトリック教徒であったため審査律に触れ、 1673年公職を追われた。 しかし、イングランド国内でのカトリック復興を狙うフランス王ルイ14世からは1660年ノルマンディー公位を贈られた。 1685年の即位後はプロテスタントを公職から追放するなど、カトリック復興を目指した。 そこで議会側はプロテスタントであったジェイムズの長女メアリ(次王)を国王に迎えるため、その夫であるオレンジ公ヴィレム3世(次王)を頼って、 1688年ヴィレムは挙兵するがこれを迎え撃つはずのジョン・チャーチルがジェイムズを見限ったため、 ジェイムズはフランスに脱出した。(名誉革命 The Glorious Revolution) その後ジェイムズはルイ14世の支援で1689年に王権奪回のためにアイルランドに上陸するが、失敗してその後他界した。
同上(前王と同じ)
29 メアリ2世
Mary Ⅱ
1689~1694
ジェイムズ2世(ヨーク公当時)と妃のアン・ハイドとの長女に生まれ、 自身はカトリックであった伯父のチャールズ2世にプロテスタントになることを、 妹のアン(後のアン女王)と共に勧められていた。 このことがカトリックであった父王の退位、自身の即位に繋がった。 この時軍事力で助けた夫のオレンジ公ウィリアム3世は自分の処遇に不満を述べ、 メアリ2世もウィリアムの即位を望んだため、 前例を見ない、メアリ2世とウィリアム3世が共同で統治するという共同君主 Joint sovereignsとなった。 二人の仲は睦まじかったが、1694年メアリは天然痘で先に他界した。 メアリの遺言でその後、ウィリアムの生存中に限り単独君臨するという約束が、次王になるメアリの妹アンとなされていた。
William and Mary
By the Grace of God, of England, Scotland, France and Ireland,
King and Queen, Defenders of the Faith, Etc.
30 ウィリアム3世
William Ⅲ
1689~1702 ナッサウ=オラニエ家
(ナッソウ=オレンジ)








オレンジ公ウィリアム2世とチャールズ1世の長女メアリ・ヘンリエッタの長男として生まれた。 出生の直前に父が他界していたため、出生と同時に父の職位(ネーデルランド七州連合最高行政長官)を継いだ。 前イングランド国王ジェイムズ2世がカトリックで親フランスであったことから、 フランス国王ルイ14世との対決に協力を要請できなかったが、次第にイングランド国内で、 自身の妻でプロテスタントであるメアリ2世を擁立する動きとなり、兵を率いてイングランドに上陸、 戦わずしてジェイムズ2世を退位させた。 しかし、自身はメアリ2世の夫としか処遇されないことに怒り、 メアリ2世もウィリアム3世のイングランド国王即位を望んだため、 その妥協策として二人が共同君主になることに落ち着いた。 とは言え、スコットランド及びイングランド国内でもウィリアムの即位に反対する者が多く、 ウィリアムはそれに対抗して1692年「グレンコウの残虐」を起こした。 一方でウィリアムは議会を尊重し、「君臨すれども統治せず」の立憲君主制の礎を築いた。 また1694年イングランド銀行の創設、1701年王位継承令を制定、英国王位継承の原則を確立した。 先に他界したメアリ2世との間に世継は生まれず、他界後はアンとの同意の通りアンが即位することとなった。
前王と一体
31 アン
Anne
1702~1714 ステュアート家
Stuart




ジェイムズ2世(ヨーク公当時)と妃のアン・ハイドとの次女に生まれ、 自身はカトリックであった伯父のチャールズ2世にプロテスタントになることを、 姉のメアリ(女王メアリ2世)と共に勧められていた。 ウィリアム3世ともいとこに当たる。 女官セアラ・ジェニングス(後のモールバラ公夫人)を寵愛し、セアラが宮廷を牛耳っていた。 またセアラの夫ジョン・チャーチルをモールバラ公に叙爵するほどだった。 アン女王自身はデンマーク王フレデリック3世の息子ゲオルグと結婚するが、死産(12回)、出産後の死亡(4回)を繰り返し、 王位に就いた時には世継がいなかった。 外政にモールバラ公ジョンに、内政を後のゴドルフィン伯シドニー・ゴドルフィンに任せた。 1707年にはスコットランドとの連合を実現し、グレイト・ブリテンとした。 1710年ホイッグ党のサンダーランド伯チャールズ・スペンサーの入閣をめぐりアンとモールバラ公夫妻が対立し、 女官セアラ罷免、ゴドルフィン伯失脚、モールバラ公の解職となった。 その後はトーリーのオックスフォード伯ロバート・ハーリーが政権を握った。
1702~1707
By the Grace of God, of England, Scotland, France and Ireland,
Queen, Defender of the Faith, Etc.
1707~1714
By the Grace of God, of Great Britain, France and Ireland,
Queen, Defender of the Faith, Etc.
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32 ジョージ1世
George Ⅰ
1714~1727 ハノーヴァー家
Hanover


(?)
ハノーヴァー選帝侯エルンスト・アウグストと侯妃ゾフィア・オブ・ボヘミア(ジェイムズ1世の孫)の長男として生まれ、 38歳で父のハノーヴァー公位と選帝侯位を継承するが、前イングランド女王アンに世継がいなかったため、 イングランド王ジョージ1世として迎えられた。 しかし英語を解せず、閣議にもほとんど出席せず、政務はロバート・ウォルポールに任せたため、 「君臨すれども統治せず」の責任内閣制を発展させた。 愛妾二人を伴ってのイングランド入国だったため国民には嫌われた。 王妃ゾフィア・ドロテアを不倫を理由に1694年から1726年の他界まで幽閉したことで知られ、 ヨーロッパの王侯貴族にも嫌われた。 また王妃と二人の子供、皇太子ジョージ・オーガスタス(次王ジョージ2世)、娘ゾフィア・ドロテア(後のプロイセン王妃)との接触も禁じたため、 他界するまで和解することはなかった。
By the Grace of God, of Great Britain, France and Ireland,
King, Defender of the Faith, Etc.(要確認)
33 ジョージ2世
George Ⅱ
1727~1760
ジョージ一世と妃ゾフィア・ドロテアの長男としてハノーヴァーで生まれ、 11歳の時に母ゾフィアが幽閉された時から、 父王ジョージ1世が他界するまで言葉も交わさないほど対立した。 父王が重用したという理由で首相ロバート・ウォルポールを更迭しようとしたが、 賢明な王妃キャロライン・オブ・アーンズパックの進言を聞き入れ、その後もロバートに政務を任せた。 1741~1748年のオーストリア継承戦に介入して、1743年にはイングランド軍とハノーヴァー公国の連合軍を陣頭指揮し、 フランス軍を敗走させた。 1745年ジェイムズ2世の孫を自称するチャールズ・エドワードの反乱軍を、 ジョージ自身の三男カンバーランド公ウィリアム・オーガスタスが鎮圧してからは首相ウィリアム・ピットに全面的に内閣を任せた。 数多くの愛妾と関係を持ち、子供も皇太子フレデリック・ルイスを含め三男五女をもうけたが、男子三人はジョージ2世よりも先に他界したため、 次王は皇太子フレデリックの長男ジョージ・ウィリアム・フレデリックが継承した。
同上(前王と同じ)(要確認)
34 ジョージ3世
George Ⅲ
1760~1820 前王ジョージ2世の皇太子フレデリック・ルイスと妃オーガスタ・オブ・サクス・ゴータの長男として生まれ、 13歳(1751年)で父を失い、コーンウォール公位、続いてプリンス・オブ・ウェイルズに叙位された。 1760年祖父のジョージ2世の他界で王位につき、弱体化した王権の回復を目指した。 「王の友達 King's Friends」と呼ばれた買収議員団を議会に送り込んでホイッグ党に対抗した。 しかし、1770年ボストン紅茶事件を招き1775年のアメリカ独立戦争、1776年の独立宣言に繋がった。 その後は「小ピット」ウィリアム・ピットの重用で自身のドイツ型専制政治を弱め、責任内閣制の首相政治を確立した。 1801年アイルランドとの連合を実現し、「連合王国」となった。 1811年からは自身の精神異常のために皇太子ジョージ(次王ジョージ4世)が摂政となり、治癒しないまま1820年に他界した。
1760~1801
同上(前王と同じ)
1801~1820
By the Grace of God, of the United Kingdom of Great Britain and Ireland, King, Defender of the Faith.
35 ジョージ4世
George Ⅳ
1820~1830
父王ジョージ3世と王妃シャーロット・オブ・メックレンブルク・シュトゥレリッツの長男として生まれ、 同時にコーンウォール公、続いてプリンス・オブ・ウェイルズに叙位された。 司教リチャード・ハードの厳格な教育を受けたにも関わらず、父王に逆らい勝手にレディー・アン・ホートンと結婚、不倫、 ギャンブルなど数々の不品行で知られた。 一方で芸術への関心が高くロイヤル・コレクションを充実させ、 またスコットランドを訪問し同国との関係改善に務めた。
(調査中)
36 ウィリアム4世
William Ⅳ
1830~1837 父王ジョージ3世と王妃シャーロット・オブ・メックレンブルク・シュトゥレリッツの三男として生まれ、 1789年にクラランス公に叙爵された。 14歳から海軍の士官候補生となったが、父王の厳命で一般の教育訓練を受けた。 スペイン艦隊との実戦に加わり、その後も海軍に身を置いた。 女優ドロシー・ジョーダンと20年もの間同棲し10人の庶子をなしたが、 王位継承権を持つ者がいないことから1818年サクス・コブルク・マイニンゲン公女アデレイドと正式な結婚をしたが、 生まれたどの子も死産、幼くして死亡を繰り返し、皇太子には恵まれなかった。 腐敗選挙区の多くあった当時に選挙法改正を成し、貴族による政治から商工業階層による政治転換を成功させた。
(調査中)
37 ヴィクトリア
Victoria
1837~1901 ケント公エドワード・オーガスタス(ジョージ3世の次男)とヴィクトリア・メアリ・ルイーザ(サクス・コブルク・ザールフェルト公フランツ・フリードリッヒの娘)の一人娘として生まれ、 王位継承者となった時から過干渉を続ける母を自身が王位を継ぐと排除したことで知られる。 サクス・コブルク・ゴータ公の次男アルバート結婚したが、当初国民には歓迎されなかったが、 その後議会からプリンス・コンソートの称号を贈られるほど賢明だった。 1861年にアルバートが急死してから10年もの間喪に服したヴィクトリアだったが、ディズレリー首相(後のビーカンズフィールド伯)のおかげで、 後の1876年には「インド女帝 Empress of India」の称号が贈られた。 数々の有能な宰相に恵まれて、自身の子女たちもヨーロッパ王家との人脈を作った。
1837~1876
By the Grace of God, of the United Kingdom of Great Britain and Ireland, Queen, Defender of the Faith.
1876~1901
By the Grace of God, of the United Kingdom of Great Britain and Ireland, Queen, Defender of the Faith, Empress of India.
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38 エドワード7世
Edward Ⅶ
1901~1910 ザクセン=コーブルク=ゴータ家
Saxe-Coburg-Gotha

前女王ヴィクトリアと王婿アルバートの長男として生まれ、 同時にコーンウォール公、続いてプリンス・オブ・ウェイルズに叙位された。 姉ヴィクトリアの利発さと比べられたことから、最後まで両親とはうち解けなかった。 好色王として知られ、生涯で101人もの女性と関係を持ったとされている。 第一次世界大戦前の不安定なヨーロッパの中で1904年の英仏協商、1907年の英露協商に成功し、 平和の維持に努めたので、「平和製造人 The Peacemaker」のニックネームがつけられた。
By the Grace of God, of the United Kingdom of Great Britain and Ireland, and the British Dominions beyond the Sea, King, Defender of the Faith, Emperor of India.
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39 ジョージ5世
George Ⅴ
1910~1936 ウィンザー家
Windsor

父王エドワード7世と王妃アレグザンドラ・オブ・デンマークの次男として生まれた。 12歳(1877年)で兄クラランス公アルバートと共に海軍に入り、後に「セイラー・キング」と言われる程の航海好きになった。 1892年にクラランス公が他界し、ヨーク公に叙爵され、翌年兄の婚約者だったテック公の長女メアリーと結婚した。 1901年の父の即位により、コーンウォール公に叙爵、続いてプリンス・オブ・ウェイルズ公に叙位された。 即位後は内閣と貴族院の対立、アイルランド独立法案などの難しい問題に直面したが、的確に対応し、立憲君主としての名声を高めた。 第一世界大戦での敵国ドイツの王朝名ザクセン・コブルク・ゴータを「ウィンザー王家」に改めた。 同時に王族の姓バッテンブルク Battenburgもマウントバッテン Mountbattenに改姓した。 大戦後も労働党内閣に適切な助言をして立憲君主として成功した。
1910~1927
同上(前王と同じ)
1927~1936
By the Grace of God, of Great Britain, Ireland, and the British Dominions beyond the Seas, King, Defender of the Faith, Emperor of India.
40 エドワード8世
Edward Ⅷ
1936
父王ジョージ5世と王妃メアリ・オブ・テックの長男として生まれ、 1910年にコーンウォール公に叙爵、翌年にプリンス・オブ・ウェイルズに叙位された。 第一次世界大戦では前線に出ることを望み、女性関係も華やかで型破りのプリンスとして知られた。 1936年に王位にはついたものの、アーネスト・シンプソンの夫人ウォーリスとの結婚か王位かの選択を迫られ、 結婚を選んだたため一年も経たないうちに退位した。 その後ウィンザー公位を贈られウォーリスとの結婚を実現した。 そのまま英国王家と絶縁状態にあったが、現エリザベス女王により和解、そのわずか9日後に他界した。
同上(前王と同じ)
41 ジョージ6世
George Ⅵ
1936~1952 父王ジョージ5世と王妃メアリ・オブ・テックの次男として生まれ、 1920年ヨーク公に叙爵された。 1936年兄王の突然の退位により王位についたが、身体も弱く言語障害も持っていたため、 王妃エリザベスは前王のエドワード8世が他界するまで絶縁した。 しかし、父王と同様に海軍士官になったこと、世界大戦に巻き込まれ国民と苦労を分かち合ったことなどで、 名君と呼ばれ国民に愛された。 在位中の1947年のインドの独立によって、インド皇帝の称号は廃止された。
1936~1947
By the Grace of God, of Great Britain, Ireland and the British Dominions beyond the Sea, King, Defender of the Faith, Emperor of India.
1947~1952
By the Grace of God, of Great Britain, Ireland and the British Dominions beyond the Sea, King, Defender of the Faith.
42 エリザベス2世
Elizabeth Ⅱ
1952~
父王ジョージ6世と王妃エリザベス・バウズ・ライアンの長女として生まれ、 父王の即位に伴い暫定王位継承者 heiress presumptiveとなった。 (まだその後男子が産まれる可能性があったため暫定とされた。) 1942年近衛歩兵第一連隊の名誉連隊長の職位、1944年父王の国内不在時には代理役 Councillor of Stateについた。 また婦人国防軍にも参加した。 1947年ギリシャ王子フィリップと結婚、1952年父王の他界で王位についた。 叙爵に慎重で知られ、開かれた王室を目指している。

現英国王室構成員一覧
By the Grace of God, of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland and of Her Other Realms and Territories, Queen, Head of Commonwealth, Defender of the Faith.(要確認)
※創作物に使用する場合は敬意をもって使用のこと。
※世数表示は見間違いを防ぐため、アラビア数字で表記した。
※(?)=調査、確認中。
※ランカスタ―家(エドワード3世四男ランカスタ―公ジョン・オブ・ゴーントの血筋)、 ヨーク家(エドワード3世五男ヨーク公エドマンドの血筋)はプランタジネット家の一部とされる。
※ウィリアム3世はスチュアート家とされることもある。
※ジェーン・グレイは歴代(女)王として認めない歴史書もある。
※ハノーヴァー選帝侯=神聖ローマ皇帝の選挙権を持つ者の冠位
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